車の中の手袋(2)




 役所の最寄り駅から一つ離れた駅前のロータリー、滑るように停まった車は国産とはいえ奏子でも一目で分かる高級車だった。一度は助手席に乗ってみたいと、CMを見て憧れた車でもある。けれど奏子はそれが実現するとは思っていなかった。サイドブレーキを引いて奏子と目を合わせた男は、目を細めた。促すように頷く。三月にしては厳しい冷え込みに白い息を吐きながら、奏子は覚悟を決めて助手席のドアを開けた。

 一週間前、奏子が向かった庁内食堂は相変わらず役所の職員で埋め尽くされていた。市内の小さなベーカリーから仕入れている購買のパンが目当てだったが、その日は売り切れていて仕方なく日替わり定食の食券を購入した。課内の他の女性たちはお弁当を持参し職場で食べているため、パンを買いそびれた奏子は一人だった。トレーを持って歩いていると後ろから人が近づいてくる気配を感じ、席を探していた奏子は道を空けようと端に寄った。
「リーダー、打診されたんだって?」
 すれ違いざまに囁かれた低い言葉に顔を上げると、そこには奏子が仕事の上では尊敬している男の姿があった。比留間は奏子に、「相談なら、乗る」とだけ言い残して食券の列に並んだ。奏子は極力何も聞いていない様子を装って近くのテーブルの端に座った。

 白子のてんぷらは、噛めばサクサクと音を立て、口の中ではクリームのようにとろける。それほど美味しいてんぷらを、奏子は生まれて初めて食べた。
「信じられないくらい美味しい」
 比留間は奏子の様子に満足げな笑みを漏らした。彼と付き合えばきっと、こんなふうに小さな事から教えられていくのだろうと奏子は思った。
「で、リーダーは断るのか?」
 口当たりの良い日本酒を啜っていた奏子はグラスから口を離した。
「断るつもりです」
「まあ、妥当な判断だな。多分君なら無難にこなせるだろうけれど、もう何年かしたら無難にこなすだけじゃないリーダーになれる。そのほうが僕も面白い」
「それは買いかぶりですけれど、やっぱりまだ早すぎるかな、と。人生設計も、真っ白なのに」
「とりあえず、一度は不倫を経験してみることをお勧めするよ」
 奏子は顔を上げて比留間を見た。笑みは無いのに、どこか自信を湛える表情。
「今日はサービスだけどね。次回からは、授業料取るよ」
 奏子が連絡を取って来ることを疑いもしないような調子で、彼はそう言った。



 待ち合わせ場所はいつも奏子の自宅であるワンルームマンションの近く、スーパーの駐車場の店から一番遠い一角だった。山北の車を見つけた奏子は小走りに近づいた。携帯をいじっていた山北は奏子の姿に気がつくと持っていたそれを後部座席に放り投げる。奏子は助手席のドアを開けた。
「手袋は?」
 前に会った時車の中にはずした手袋を忘れてしまった奏子は、山北にメールで確認してあった。車の中で手袋を嵌めたままの日々は、車検というきっかけによって案外早く終わってしまった。
「ああ、うしろだ」
 奏子は一旦助手席のドアを閉めて後部座席側のドアを開けた。後部座席のほぼ中央に、奏子の手袋とちょうどその上に乗ってしまった携帯電話が見えた。両方を手に取った奏子は、「こんな所に携帯置いといていいの?」と尋ねた。
 山北の携帯電話はバータイプのデザイン携帯で、手に取った瞬間液晶が目に入った。メールを終了し忘れたその画面を、「いいよ、置いといて」と言われるまでの一瞬の間に理解してしまう。
 再び助手席のドアを開けて座った奏子は、車内空調の吹き出し口の方向を変えた。二月に車検に出してからというもの、山北の車は暖房が効きすぎる車に変貌した。この車はほどほどという言葉を知らないのだろうか、と心の中でつぶやいた奏子は比留間の車を思い出していた。都内の某ホテルを髣髴とさせる、空調があることすら意識させない快適な空調。一方の目の前の吹き出し口から出る空気は、どんなにスイッチをいじっても車内が暑くなりすぎるという厄介な性格だった。
 けれど、と奏子は思う。けれど、あの高級シートよりもこの固いシートの助手席のほうが、本当は居心地がいいのだと。
 それでも、もうこれ以上居心地の良さばかりを求めて、現実を直視しない訳にはいかなかった。奏子には、仕事に関して的確に指摘してくれる誰かが必要だった。目にした山北の携帯のメールの文字も、その気持ちに拍車をかけていた。
『合コン、楽しかったですvvまた呼んでもいいですか?』
 絵文字を駆使した、可愛らしい文面。メールをほぼ連絡手段と仕事のツールとみなしている奏子は、絵文字を使ったことが無かった。機種依存文字を避ける、という『マイクロソフトアクセス質問掲示板』で最低限とされるルールが染み付いている所為でもあった。
 車を発進させる様子の無い山北に奏子が首をかしげると、彼はハンドルを拳で軽く叩いた。
「この間、用事があるって言ってた日、比留間さんの車に乗ってなかった?」
 奏子は大きく瞬きをしながら山北を見ていた。気をつけていても、役所から十キロ圏内は危ないものなのだと思い知らされた。
「リーダーのこと、相談に乗ってもらってたから」
「二人で?」
「他に、一緒に来てくれる人なんて私の知り合いに居ないし」
「俺はどうなんの?」
「比留間さんのこと、嫌いでしょ?」
 山北は眉を寄せてから、「まあね」と答えた。
「だいたい、俺に相談すれば?」
「相談したじゃない。でも『どっちでもいいんじゃない』なんて言われたら、それ以上相談しようがないもん」
「アルバイトの俺じゃ、大したことは言えないしな」
 彼は指で小刻みにハンドルを叩きながら、顎をその上部に乗せた。
「それは違う。山北君客観的だし。でも正直困ったんでしょう?私がリーダーなんて、無理に決まってるのに相談されて」
「そんなこと言って無いだろ」
「…なんか、機嫌悪いね」
「当たり前でしょーが。比留間なんて、上司でも何でもない、ただのスケベジジイだよ。なんで野木さんがそんなに信頼してるのか、さっぱり理解できない。友達でも無いそんな奴と二人で食事に行く神経も理解できない」
「食事以外に何も無かった。話も仕事のことばかりだったし、合コンよりもきっと会話に色気が無いんじゃない?」
 奏子は思ったよりずっと自分が冷静でいられる事に安堵していた。言葉は感情を孕まなかった。けれど山北はもう一度ハンドルを拳で叩く。
「合コンは、後輩に頼み込まれたんだよ」
「じゃあ、頼み込まれたら、また行くんでしょう?」
 山北は悔しそうな表情で奏子のほうを見た。目が潤んでいるようにも見えた。
「何で俺がこんなに追い詰められてんのかな?」
「携帯をうしろになんて放り投げるからだよ、きっと」
 本当はもう少し、一緒に居たかった。一緒に居れば、楽しいことがきっとたくさんあるだろう。でも、駄目なんだろうなと感じながら奏子はガラス越しの空を見上げた。いつまでも、社会という海をただ眺めているだけでは済まされない。
「次に相談に乗るなら、タダにはならないって言われた」
 山北が溜息をついて「やっぱりな」と漏らした。
「そんな奴もう連絡すんなよ」
「無理かな。私には他に庁内で頼れる人が居なくなる」
「……」
 山北が三月一杯で庁内アルバイトを辞めるという話は、庶務課長から聞いていた。
「あそこで生きていくには、比留間さんに頼るしかないんだと思う。求められる見返りがはっきりしてるのも、ある意味では気が楽だし」
「…俺とは、別れるってこと?」
「その方が、自由に合コンに行けるでしょう?」
 笑いながら言ったつもりだったのに、奏子の瞳からはぱたりと一つ雫が漏れた。
「比留間の奥さんに訴えられたら、慰謝料払わなきゃいけなくなんだぞ」
「知ってる。比留間さんそれは無いって言ってたけど、可能性としてはあり得るし、覚悟してる」
「関係ない比留間の子どもたちまで、傷つけるかもしれないんだぞ」
 奏子は胸を押さえた。分かっていたはずだけれど、言葉にされればやはり痛かった。
「そうだね」
「言っとくけど、子ども達を傷つけるような奴、俺は知らんから」
 奏子はもう一つぱたりと雫を落としてから、二度頷いた。手袋をしっかりと手に嵌めて「試験頑張って」とだけ言い残し、助手席のドアを開ける。それを閉めると、奏子は振り返らずに自宅を目指した。





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