車の中の手袋(3)




 初夏の月曜日、奏子は一ヶ月前から申請していた半休を取って午前で仕事を切り上げた。自宅へ戻ってライトパープルのコンパクトカーに乗り、駅から離れた市立博物館へ向かう。国道で自動車の脇をすり抜けてくる危なっかしい原付を先に行かせてから左折し、住宅街を抜けると、広々とした芝生の空間が開ける。
 奏子は勤めているM市の隣接市であるS市に一人暮らししている。S市では公民館の役割も果たす地域型の博物館が五年前に建てられた。奏子の勤めているM市でも博物館の設立が検討されているが、予算が取れずに計画は延ばされ続けている。
 駐車場に車を停め、薄く開けていた窓を閉めてから車を出ると、初夏とはいえ陽射しが暑い。戻った時に車の中が暑いかもしれないと、奏子は再び車へ戻り銀色のシートをフロントガラスの手前に立てた。
 学生の頃免許を取って以来乗っていたなかったため敬遠していた自動車は、しかし自分のものを手に入れれば愛着を持てる道具だった。運転に必要とされる適度な緊張感が奏子の性に合っているのかもしれなかった。コンパクトカーではあるが内装にこだわったため空調も快適で光脱臭機能で臭いもこもらない。
 奏子はトランクから軍手と風呂敷の入った大きな鞄を取り出すと、博物館の入り口へと向かった。その日は趣味で続けている水彩画教室の、展示会の最終日だった。奏子は最後の二時間の受付を担当し、その後集まることのできる受講生全員で片づけを行う予定になっていた。



 比留間との不倫は一年続いた。奏子は彼から個人的にお酌の練習、仕事着の選び方、庁内の人間関係から役所周辺の使える飲食店までを教え込まれた。比留間とはいつも都内の名の通ったホテルで待ち合わせる。彼はバーで酒の飲み方を語ってから奏子を部屋へと連れて行った。ジムに通っているという比留間の体は無駄がなく、まるでどこかの彫刻のようだと奏子は思っていた。
 二人で逢う時間、比留間は『妻』や『子ども』という存在をほどんど口にしなかった。また、奏子もその存在をあまり意識することはなかった。比留間には好感を持っていたが、休日ごとに会いたいと思うほどの存在ではなかった。だから奏子は他人から聞くほど『不倫の辛さ』を経験していない。輪郭のぼやけたような寂しさを味わいはしたが、『痛い』というほどの思いをしたことがなかった。『不倫』という関係にすら、どこか距離をとったままでいる自分。奏子にはそれが忌むべき事柄であるようにも、受け入れるべき事柄であるようにも思えた。
 けれど結局、奏子が把握している範囲では比留間の妻子に知られることはなく、『そろそろ、君も僕から卒業かな』という言葉で彼との関係は終わった。

 比留間との不倫関係が終わってすぐ、奏子は総務部庶務課から教育委員会教育総務課へと異動した。教育施設からの消耗品要求は庁内全体よりも多いが、イントラネットの導入は遅れていた。奏子が異動する前年からシステムが導入され、課内の処理の流れがやや混乱していた。それを整理するために奏子が異動になったという内情は異動の前から比留間に聞かされていたが、いざ教育施設の消耗品要求データを整理するとなると例外処理が多く頭を抱えた。軌道に乗せるまでVBAのサンプルコードをにらめっこをする日々が続き、偏頭痛も頻繁に起こった。
 幸運だったのは混乱を見込んで奏子と同時に異動してきた教育総務課のリーダーが、説明をじっくり聞いて理解し指示を出してくれるタイプの男性ということだった。システムを作り始めてから一年が経った今ではなんとか落ち着いて日々の処理が流れるようになっている。新しい上司はどこまでも柔らかい物腰で、何事も即座に理解しようとする比留間とは違うタイプだったが、人間的に信頼できると奏子は思っていた。彼の机の端には小さいながらも娘の写真が飾ってある。
 奏子は自分が恵まれた環境であることを認識していた。それを今後の不安材料にも思っていたが、それでもこの先役所という場所でなんとかやっていけるという自信は身につけていた。同じ課内の五歳年下パソコンが苦手と明言する女性からは時折裏で『お局様にー、ならないように気をつけてくださいネ』などと言われることもあるが、それほど気に留めずに居られた。それは比留間のお陰でもあった。



 去年、奏子は視察のためS市の公民館に初めて足を踏み入れた。M市で博物館設置計画が立ち上がり運営面予算面双方において他市視察を行うべきだと教育長が決定したためだった。教育委員会の職員四名で、企画から予算面まで担当職員に時間を割いてもらい情報提供を受けた。
 その時に目にしたのが、今奏子が教わっている水彩画の講師の絵だった。絵を見ていた奏子に、S市の博物館職員は市民講座が開かれている事を説明してくれた。S市では博物館内に小集会所が三つ備わっており、幾つかの市民向け講座が有料で開かれている。水彩画のほかにも日本画・デッサン・風景写真・編み物といった教室があった。有料とはいえ比較的割安で、S市民である奏子は申し込んですぐに体験講座として一時間の予約を取ることができた。
 中学生の頃、奏子は美術の時間が好きだった。一枚一枚掘り込んで色を重ねていく多版多色刷り版画が出来上がった時には感動したし、教科書に線引きして構図をつかみ、ポスターカラーを使った模写も楽しかった。比留間と関係を持っていた頃は、時間があればホテルの部屋へ向かう前に美術館でデートをしたものだった。
 博物館に飾られていた講師の絵は水辺に映る緑を描いたシンプルなものだったが、透明な印象を与える風景に奏子は引き込まれた。自分で何かを描いて生み出すという記憶を、奏子に思い起こさせた。
 社会で細々とでもやっていけると自信を持った奏子は、ささやかな趣味を持つという希望を持っていた。水彩画教室の講師は変わった話し方をする男性だったが教え方は丁寧で、奏子は二週目から正式な受講を申し込んだ。
 技法を学びデッサンを繰り返し、奏子の絵は徐々に「下手」の領域からは脱していったがそれでも完成には程遠かった。次に取り組むものは少しでも本物に近く、けれど美しくと努力しながら色を重ねていくことが奏子の趣味になった。



 小展示室では水彩画と風景写真の展示が同時に行われている。奏子は風景写真の受講者二人と交代して受付の席に座った。後からすぐに同じく受付担当となっている女性が小走りに姿を見せた。奏子の母親と同じ年齢の水彩画教室受講生で、「少し遅れてごめんなさい」と言いながら奏子の隣に腰を下ろす。おっとりとした女性で、最初に奏子に教室の事を教えてくれた人物でもある。少々お節介ではあるが、好感を持っている人物でもあった。
「野木さんは、誰か知り合い見に来るの?」
「ええ、昨日母が来たみたいです」
 姉が双子を産んでからというもの子守に忙しい母から、絵を見たというメールが携帯に届いたのは昨日の夜だった。展示会の日程は伝えてあったもののまさか見には来ないだろうと思っていた奏子は驚いた。『もう誰でもいいから結婚しろ、なんて言わないから、たまには実家にも顔を出しなさい』という言葉に、確かに最近可愛い姪と甥の顔を見ていないと思い出した。
「まあ、そう。私なんて娘に中学の授業参観日も教えてもらえなかったわ。おばあちゃんみたいな母親が嫌なのかしらね」
 彼女の横顔は笑みのほかに寂しさが混じっているように思えた。遅くに産んだ中学生の娘が居る、という話は以前から聞いていた。
「私も中学生の頃はそうでしたよ。お知らせは渡しましたけど、来なくていいって言ってましたよ」
「そうなの…年頃の女の子って、そういうものかしら?」
「来て欲しい子もいるとは思いますけど、私は中学生になってわざわざ授業参観なんて、って思ってました」
「そんなものなのね。あの子私と違ってちょっと難しいから、そうなのかもしれないわねえ」
 難しい子、という言葉を、小さい頃から幾度も投げかけられたように奏子は記憶している。ふと、山北と比留間以外の付き合った男性には必ず、『難しい女』と言われた事を思い出し、隣の女性に気付かれないようゆっくりと息を吐き出した。比留間は奏子を『面白い事を考える』と評し、山北は奏子によく『色々考えすぎるなよ』と言ったものだった。
 甲高い幼い子どもの声が聞こえ、奏子と隣の女性が顔を上げると、若い男性に肩車される幼い男の子が目に入った。誰かの旦那様と息子なのだろうかと男性に視線を下ろすと、彼は今まさに考えをめぐらせていた人物だった。子どもの両手を取ってあやしているのは、山北鋼平だった。
 山北は奏子を見ても表情一つ変えず、隣の女性に話しかけた。
「すいません、隣にある保育所の職員なんですけど、この子がどうしてもお父さんの写真を見るって聞かないもんで…少しだけ一緒に見てもいいですかね?」
 彼女は笑顔で「もちろんどうぞ」と答えてから「名前だけ教えてもらってもいいかしら?」と尋ねた。
「はまのしょうたです」
 肩の上で答えた男の子に「まあ元気ね」と声をかけ、彼女は受付名簿にひらがなで『はまのしょうた』と記した。ボールペンで滑るように書かれた字は教科書のお手本のようだった。肩車をしたまま小展示室へ入っていく二人を見送り、奏子は隣の女性に「字、上手ですね」と声をかけた。彼女はふふふ、と笑ってから「絵は野木さんに負けるけどね」と言った。
 忘れた手袋を受け取って以来、山北とは一度も会っていなかった。連絡も来なかったし、こちらからも取らなかった。奏子が彼について知っている情報は、今はもうM市で働いていないという事だけだった。
 しばらくして肩車をしたまま小展示室から出てきた山北と男の子へ隣の女性は笑顔で手を振った。男の子は表情を変えずに手だけを振り返した。
「何時に終わるの?」
 それは、男の子にかけられた言葉だと思った。だから奏子はうつむいて美しく書かれた『はまのしょうた』という文字を見ながら、『浜野』は確かニューヨークの夜景の写真を展示している人ではなかっただろうかと考えていた。突然隣の女性に肩を叩かれて、奏子はまず彼女のほうを見た。
「野木さん、貴女に話しかけてるみたいよ」
 顔を上げると、山北と目が合った。
「野木さん、これって何時に終わるの?」
 山北の声や視線はまるでついこの間も会話したかのようだった。つられて、奏子もごく普通に答えた。
「あ、と、受付は五時まで」
「じゃあ五時で帰るの?」
「ううん、片づけがあるから、五時半過ぎるかも」
「俺今日仕事五時半までだから、ここの向かいのコンビニで待ってるわ。バスで来たの?」
「ううん、車で」
「マジで?買ったの?」
「買った。ていうか、山北君の車は?」
「今はバス電車通勤。あ、それと俺今正規職員。ここの市で採用された」
「え、そうなの?おめでとう」
 笑みを浮かべようとした山北の唇が「いて」という声を上げ、奏子が目を瞬かせると肩車をしている男の子が彼の髪をつかんでいた。
「こうへい、この人カノジョ?」
「ちげーよ。だいたい将太、先生のことはこうへい先生って呼べって言ってるだろー?」
「こうへいはこうへいだ」
「せんせーって付けろ。将太はいつになっても覚えねーなあ。おし、教室戻るぞ」
「うす」
「『うす』じゃなくて『はい』だ」
「うす」
 男の子の表情は変わらないが、山北と会話を交わすことは楽しいのだろうという気が奏子はしていた。山北は上げていた目線と顎を下ろし軽く片手を上げた。
「…じゃ、野木さん、後で」
「ああ、うん」
 縦に長い影が過ぎ去った後、隣の女性はそちらのほうを指差した。
「あの人、野木さんの彼氏?」
「…違います」
 他に、答えようがなかった。







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