車の中の手袋(4)




 展示室の片づけが終わると、五時四十分を少し過ぎていた。期待と不安と平常心を交互に繰り返すという心理状況で奏子がコンビニエンスストアを覗くと、山北が窓際で雑誌を立ち読みしていた。男性向けのファッション雑誌だった。奏子も半年に一度だけは、同年代向けのファッション誌を買って目を通すようにはしていたが、それは仕事のためであって自分で読みたいと思えるほどの興味は持てないままだった。山北が奏子に気付き雑誌を棚に戻した。
「終わった?」
「うん、終わったけど、本当に乗って行くつもり?」
「え、なんで?やっぱりまだ運転下手なん?」
「確かに上手くは無いけれど、すごく下手ではなくなったはず」
「じゃあいいじゃん。駅まで乗せてよ」
 店から出ても、山北はごく普通に奏子のあとを付いて歩き奏子の車に乗り込んだ。
「なんか細かくメンテナンスしてそうな車だな」
「そりゃあ、山北君よりはしてると思う。あの車、とうとう壊れたの?」
「ご名答。エンジンがかかりにくくなって、修理に持って行ったらすんげえ金額かかるって言われた。今どうしようか迷ってるから、バスと電車で通勤」
「それでも、良く持ったほうなんじゃない?」
「まあね」
「もうとっくに、乗り換えてるかと思ってた。あ、シートベルト締めてね」
「ああ、助手席なんて滅多に乗らないから忘れてた」
 奏子もシートベルトを締め、ミラーをチェックし、エンジンを掛けた。まだ日は長く、周囲は夕焼けに照らされていた。駐車場を出て一般道を進み始めたところで、山北が口を開いた。
「何度か、乗り換えようと思ったんだけどさ、車」
「うん」
「後ろの席に、まだ野木さんの手袋がありそうな気がして、処分できなかった」
「…ちゃんと、持って行ったじゃない」
「ああ、分かってるんだけど、頭では。気持ちが付いていかないっつーか」
「合コンの女の子と、付き合わなかったの?」
「ああいうのって、場としては楽しめるんだけどな。どうも付き合うとか、そういう感じじゃないんだよな」
「そう?」
「何?野木さん合コンに行って彼氏作ったの?」
「合コンなんて大学の頃以来、行ったこと無い」
 車は国道に乗り、奏子はアクセルを踏んだ。スピードはあまり出さないタイプだが、二車線の国道は流れに乗らないほうが怖い。
「相変わらず仕事漬け?比留間さんにアドバイスされてるの?」
「比留間さんには卒業証書貰っちゃったから、個人的には会ってない」
「卒業証書?」
「十万円もする、オキーフの絵のレプリカ」
「手切れ金の間違いじゃねーの?」
「そうとも言うかも」
「未練があるわけ?」
「全然無い。感謝してる」
「野木さん、殴っていい?」
「駅に着いてからにして。あと、理由を説明して」
「…今日、一緒に居た男の子、将太っていうんだけどさ」
 国道を左折し、商業地区を抜ければ駅がある。信号が多い通りで、すぐに車は赤信号で停止した。サイドブレーキを引き、話題の転換に首を傾げつつ奏子は山北を見た。
「父親は大企業で働いてて高給取りで、趣味が写真でさ。夜景撮るためにニューヨークに行ったら、そこで不倫相手作ったらしくて。今母親ともめてるらしい。だからここんところ、すげえ落ち着かねーのよ、将太。まったくさあ、もめるなら子どもの前以外でもめて欲しいよな。隠したって何か変だって気付くっていうのに」
 奏子は歩行者信号の点滅と同時にサイドブレーキを解除した。信号が青に変わり、左右を確認してアクセルを踏む。
「私は、彼の家庭になるべく影響しないようにしたつもり」
「野木さんならそうするんだろうけどね。でも感謝なんておかしいだろ」
「比留間さんの存在がなければ、私は今失業中だったかもしれないもの」
「まさか」
「本当よ」
 向こうに小さく駅ビルが見え始めた。
「やっぱ、俺の家まで送ってよ、野木さん」
 山北は腕を組んでシートに体を沈め、まるで家に着くまで動かないと決めたような様子だった。



 二年以上が経っているのに、アパートの角に位置する山北の部屋はほとんど変わっていなかった。キレイでは無いが汚くも無い部屋。マガジンラックには灯台が特集された雑誌がまだ残っている。カーテンレールに掛けられた洗濯物も、見覚えがあるものばかりだった。ただ、本棚にあった公務員試験関連の本はすべて無くなっていた。
 目が覚めた奏子は狭いベットから抜け出して、下着を身につけた。キャミソールを探したが見当たらない。ベットの中で山北に潰されているかもと溜息をついて、彼が脱いで放り投げた半袖のパーカーを羽織った。
 招かれるままに山北の部屋へ足を踏み入れ、平行線の会話の挙句、奏子は何故かベットに押し倒された。彼の意図は不明だったが、奏子はそれを受け入れた。
 キッチンで水を飲むと空腹が身にしみた。時計は八時半を指している。昼食から水分以外を胃に入れていなかった。キャミソールを発掘しなければと山北に掛かっているタオルケットをそっとつかむと、彼が目を開いた。
「んああ…何してんの?」
「服を探してるの」
「いいじゃん、泊まれば?」
「同じ服で出勤なんて絶対にイヤ。それにお腹がすいた」
「確かに。どっか食べに行く?」
「こんな時間に?いいよ、コンビニで何か買って帰るから」
「冷たいな。寝たくせに」
「正論を述べてるんだもん」
「ねー野木さん、籍入れて子どもつくろうよ。俺、子育てがしたい」
 奏子は目を見開いて山北を見た。
「山北君、頭とか色々大丈夫?」
「大丈夫だし、本気だけど?」
 山北は手を伸ばして奏子の手首をつかんだ。もう片方の手で目をこすってから、静かに奏子を見上げてくる。
「じゃあ、私がもし子どもを産めない体だったら、もう用無しなのね」
「えっ、不妊症なの?」
「調べた事は無いけど、可能性はあるでしょう?」
「あー、じゃあ…そしたら身寄りの無い赤ちゃんを引き取って育てよう。俺が残したいのは血じゃないから」
 奏子は思わず息を飲んだ。山北はともかく、自分にそんな覚悟があるとは思えなかった。
「それならなおさら、私と籍を入れる必要性ないんじゃない?」
「そりゃどうしても籍入れたくないんだったら仕方ないけど。ただ、俺が子どもと遊んでるのを見てて欲しいだけ。野木さんは絵を描いててもいいし」
 きっと子どもはどんなに可愛く思っても奏子より彼に懐くだろう。でも、二人を眺めながら自分は絵を描いていればいい。そんな光景が頭を過ぎって、訳もなく泣きそうになった。タオルケットの中にもぐりこみ、奏子は目の前にある体温に抱きついた。



(Fin)





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