鎖骨と吐息(2)




 佐緒里は登校前家の鏡の前に立って映る自身の姿を眺めた。スカートを短くすることはできない、階段でいちいち後ろを押さえるなんてみっともない。しかも頭を空っぽにすることなんてもっとできない、私は考えないと生きていけないタイプだ。そう考えた後で自分の胸へ視線を留め、佐緒里は思わず溜息をついた。

 一緒にお昼を食べることが多い同じクラスの有希は、委員会の仕事が入っている為毎週木曜日教室を出てしまう。佐緒里はその日、迷いながらも図書館棟へと足を運んだ。階段を上がりきると、予想通り高峰がパンに齧り付いている。
「まだ何か用?」
 案の定、不機嫌な声が降ってくる。それでも隣に腰掛けてみると、今度は何も言わなくなった。膝の上で弁当箱を広げ、フォークを取り出す。
「配達する家覚えるの、時間がかかった?」
 佐緒里の母親が作る肉じゃがは、家計に優しくするためか薩摩揚げがたくさん入っている。煮汁を吸った薩摩揚げをおかずにご飯を口に入れる。
「最初は結構パニックだったよ、配達が遅くなると苦情の電話が来るし。まあ、あとは慣れ。仕事ってそんなもんだよ」
「ふーん」
 相変わらず高峰の髪は目を半分隠していて、視線を合わせるのが難しいほどだった。あの前髪をピンで留めてしまいたいという自分の気持ちに気付いて、佐緒里は私は何て傲慢なんだろうと考えていた。そんなことをすれば、高峰にはうるさがられるだけだろう。避けられるようになるかもしれない、でも、そうしたい。いんげんのごま和えを口に運びつつ高峰の横顔を盗み見る。佐緒里には、これが恋とかいうものなのかどうかが今ひとつ分からなかった。それまで好きになった男の子は、他の同級生の女の子達が好きになる男の子と同じように背が高くてちょっとかっこよくて優しい、そういう誰にでも好かれるタイプの男子高生だった。高峰に対しては、そういう「かっこいい」だとか「憧れる」だとかいう気持ちは抱かない。ただ、触れたいという、おそらく欲求と呼ばれる類の気持ちが湧き上がる。
「やっぱり男子って、胸が大きくないと駄目なの?」
 ストレートに疑問をぶつけると、高峰はパンを片手に咳き込んだ。前髪越しにも、涙目になっていると見て取れる。
「いや、ほどほどじゃないと嫌だって奴もいるし、そうでもないと思う。ただの俺の趣味」
「男の人に触られると大きくなるって本当なの?」
「知るかよ。俺女じゃねえし。試したこともねえし」
「試して、みる?」
 言った後でこれほど後悔する言葉もないだろうと、口走った後で佐緒里は自らの発言に打ちのめされた。夜の商売している女性じゃあるまいし。高峰は前髪の向こうから佐緒里の様子を窺っている。
「向坂 こうさか、お前…俺のこと好きなの?」
「良く、分かんない。働いてるの、すごいなとは思うけど」
 佐緒里は正直に答えた。実のところ好きといって差し支えないような気もしたけれど、まだこんなダボダボの制服を着た男子高生を好きだという事実を飲み込め切れている訳でも無かった。
「馬鹿みてえ、優等生の癖に」
 しばらく黙ってしまった高峰だったが、佐緒里が弁当を食べ終えて四角い布で包み終えると、肩を抱き寄せた。驚いて顔を上げると、至近距離の高峰から刺すような視線が注がれる。
「働いてる男なんて、社会に出ればいくらでもいるだろ。頭いいのに馬鹿だな、お前」
 背中から伸びてきた手は佐緒里の決して豊かとは言えない胸をつかんだ。掌に力がこもる。まるで押しつぶすような動き。
「あ、や、くすぐった…」
 佐緒里が体を縮ませると、手の力がいくらか緩んだが、今度は包み込むように押し上げられた。子どもがおもちゃで遊ぶみたいだ、と場違いなことを考えながら少しだけ視線を上げると、高峰の耳は赤くなっていた。佐緒里の視線に気付いたのか、高峰は突然佐緒里から離れて立ち上がった。
「俺、向坂のことなんか、全然タイプじゃねえから」
 階段を下りていく高峰の背中に、佐緒里はぽつりと「知ってる」とつぶやいた。男の子は好きじゃない女の子の体でも色々したくなるくらいの知識はあった。触られた場所が、何故か痛んだ。
 もうここには来ない、とその時思ったはずなのに、佐緒里は次の週にも、また次の週にも図書館棟へと足を運んでしまう。



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