鎖骨と吐息(3)




 片手で肩を抱き寄せた高峰は頭を佐緒里の肩に押しつけ、もう片方の手で胸を包み込んでいる。木曜日になる度に繰り返される行為はしばらく進むこともなく、戻ることもなかった。ブラウスの中へ手が伸ばされることもない代わりに、高峰の方から止めようと言い出すこともない。接触に対してもどかしさに似た熱を感じるようになったが、大きさに変化があるかと問われると溜息をつきたくなるほどに変わらない。
 木曜日には三時間目の後の休み時間に食事をするようになった。いわゆる早弁である。有希は「どしたの?」と尋ねてきたが「有希のいない日には昼休み集中して勉強しておこうと思って」と答えると真面目ねえ、と笑った。その笑顔にチクリと心の奥が刺されて、高峰との関係だとかどうやら高峰のことが好きなようだとか、全部口にしたくなったけれどできなかった。付き合ってもいない男の子に体を触られているなんて知ったら有希は軽蔑するかもしれない。まだ、自分がクラスの中で優等生であることを保ちたいという気持ちがあった。それが「傲慢」なんだと、高峰と触れ合うようになって知った。
 高峰の方もどうやら早弁をしていると気付いた日から、接触にキスが加わるようになった。キスは初めてではなかったのに、衝撃は初めての時以上だった。胸を手で包まれながら唇を重ねられるのは、半身を食べられるような心地だった。「男子って好きじゃなくても女の子にキスできるの」と尋ねると、高峰から「うん、男なんてそんなもんだろ。だから信用しない方がいい」という答えが返ってきた。

 接触が終わるのは、突然のことだった。図書館棟の階段下から聞こえるカップルらしき男女の生徒の声が徐々に大きくなってきた時、佐緒里と高峰は慌てて体を離し、二人が見えた頃には人一人分ほどの距離を取っていた。だが、疑われるには十分な状況で、しかも女子の方は佐緒里と同じクラスだった。胸が大きくスカートが短い女子で、ぼんやりとああ高峰はこういう女の子が好きなんだろうな、と思っていた。二人はその場では「あ、なんだ先客」と戻っていったものの、次の日になってその女子は佐緒里の前でにっこりと微笑み爆弾を落としたのである。
「ね、向坂さんってさあ、高峰と付き合ってるの? なんかウケるんだけど」
 馬鹿にする声色が混ざっている。佐緒里は無表情で顔を上げた。佐緒里は負けん気が強い。最近引退したばかりの部活ではプラスに働いていたけれど、こういう場ではあまりいい傾向ではないのだろう、それは自分でも分かっていた。
「付き合うとか、そういうのじゃない。高峰くん高校生なのに働いてるから、勉強のために色々聞いてたの。大学に行くにしたって、その後の進路が心配にならない? ウケるってどういう意味?」
 心底不思議そうな顔で尋ねると、相手がたじろぐのが分かった。面白くない女、と思われただろう。
「あんなキモイ男にわざわざ? 向坂さんって真面目だよね。私そういうの分かんない」
 気がそがれたと言わんばかりに彼女はぷいっと顔を背けて席に戻った。ああ私これだから友達少ないんだろうな、とこめかみの辺りを指で押して、ふと高峰の姿を探す。勉強の時間が足りないが為にいつも通り教科書に齧り付いている高峰だったけれど、その横顔はどこか傷ついているような気がした。堂々とキモイと言われていい気持ちのする人間などいないだろう。有希が通りすがりに「なんかあの子感じ悪かったね」と囁いてくれたのが救いだったけれど、高峰に救いはあるんだろうかと思うと気持ちは沈んだ。
 そして次の木曜日から、高峰は図書館棟に来なくなった。

 不思議なことに、高峰と会わなくなってから少しだけ胸が大きくなった。今更遅い、と鏡の前でつぶやいて、それからあの時クラスで「キモイってどういう意味よ?」と怒っていたらどうなっただろうと想像した。言えなかったのは、やっぱり我が身が可愛いかったからだろう。高峰を庇うことで、クラスの女子から孤立するのは怖い。でも今現在女子から避けられている高峰だって辛いはずだ。
 あれから、高峰は彼が働いていると知らなかった男子達から話しかけられるようになった様子だった。休み時間には彼と同じく女子から避けられ気味の男子達と仲良く会話をする光景も目にする。中の一人から制服を譲られたのか、ぼろぼろながらも体に合う服を着るようになり、でも髪は相変わらずボサボサと長く目が隠れている。
 自分のしてきたことは…と言うよりも自分が高峰に与えた影響は良かったのか、悪かったのか、佐緒里にはもう分からなかった。だけど、高峰と触れられなくなったことと、それを自分の体が寂しいと感じていることだけは確かだった。
 自分の事を好きでもない男の子に触れられるというのは、倫理的によろしくはない。だけどそれでも求めてしまうことがあると佐緒里は痛いほど理解した。



 卒業式の日、佐緒里は小走りで下駄箱へ向かっていた。部活の後輩と話していて遅くなってしまったが、昇降口の前で有希が待っている。慌てて上履きを脱ぎ、それをビニールに包んで手提げに押し込み、靴を取り出した。履いてからカサ、という感触に気付く。足を靴から出してみると、中に折り込んだ紙が入っていた。取り出して開くと、そこにはびっしりと黒い文字。不思議そうにこちらを覗いている有希に「ちょっと待ってて」と叫び、目を通す。高峰、という文字を見つけて、佐緒里の心はまるで止まったように痺れてしまった。

 向坂へ。高峰より。
 ずっとずっと、向坂のことを考えるとイライラしてもやもやして仕方がなかった。何でなのか考えてたけど、言いたいこと言えなかったからだって気付いたから、手紙を書くことにした。これはただの俺の自己満足で、すげえ傲慢だって分かってる。分かってるけど、読んでもらえると俺が嬉しい。ホントにそれだけ。
 一応、ごめんって謝っておく。胸が大きくてスカートが短くて頭が空っぽな女が好きって言ったのは嘘っぱちで、正反対だった。俺実はそういう女嫌いなんだ、大概キモイとか馬鹿にするから。でも太腿とか見えると男だから反応して、そういう自分にも自己嫌悪して、あらゆる意味で地雷。
 向坂に触ってる時、何見てたかって、鎖骨でした。胸を触ってると、時々上下したり動くのがたまらなかった。あと、向坂の吐息が額とか頬とかにかかってくるのがたまらなかった。今、俺のこと変態だと思ってるだろ。まあ男なんてそんなもんだよ。それだけは事実。ああ、あと、胸も良かったけど。
 一番後悔してるのは、一緒に弁当食ってた時一口くれって言わなかったこと。いつも旨そうだった。
 俺は明日、じゃなくて渡すのは今日だな。帰ったら荷物をまとめて下宿を出ます。就職先ちょっと遠いから、一人暮らし。高校からだと、電車で二時間とかそのくらいかな。もう会えないんだろうなあ、まあ俺と向坂じゃ釣り合わないけど。
 俺にとって、向坂は、なんだろうな、希望みたいなものでした。俺でも普通に女と付き合ったりできるんじゃねって、思うようになった。それまでそんなこと不可能だと思ってたから。要するに、好きだった。馬鹿は俺です。
 書いててすげえ恥ずかしくなってきたので、読んだら燃やしてください、お願いします、てか頼む。そういう意味では向坂を信用してるから。マジで。

 読んでいて泣いてしまったので、有希が心配して走ってきて、佐緒里は慌てて彼の手紙を折りたたんだ。見せるわけにはいかない、信用されているのだから。ただ、有希にだけでも伝えたいと思ったので、佐緒里は口を開いた。
「私、高峰くんのこと、好きだったんだ」
 有希は驚いた顔をしたけれど、笑って「そんな気がしてた」と言った。有希のことすら信用できなかったこと、ごめんね、と佐緒里は心の中で謝った。それから、高峰の手紙をぎゅっと胸に抱きしめ、ごめんきっと燃やせない、ともう会えないかもしれない高峰にも謝っていた。



(Fin)



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