鎖骨と吐息(後日談)




 仕分けられた年賀状の束の中から、佐緒里は見慣れぬ懐かしい名前を見つけた。
 そもそも年賀状の枚数自体が多くはない、大学の友人は年賀メールで済ませている。職場では基本的に年賀状のやり取りをしないという決まりがある。一方両親はどうやったらそんなにたくさんの葉書をやり取りできるのかという程に分厚い束を仕分けている。佐緒里の受け取った二十枚にも満たない年賀状の中で、手に取った一枚は他のものと意味合いがあまりにも違っていた。
 高峰、という文字に高校生の頃の記憶が呼び戻される。傲慢で自分勝手でまだ無知だった、そして臆病なのにおかしなところで思い切りが良かった高校生の頃。けれど、大人になればもっと落ち着けると思っていた自分は結局のところそれほど変われているわけでもない。彼の年賀状には、ごくありきたりな干支の図柄が印刷されていた。それから手書きの文字で「元気か?」と、ただそれだけだった。
 卒業アルバムに卒業生の住所は載っていない。ただ、その後の連絡のために卒業前クラス全員の住所が記載された名簿は配られた。今でも卒業アルバムに挟んである。彼もきっとまだ持っていることだろう、この住所へ葉書を送ってきたのだから。
 久しぶりにアルバムでもひっくり返したのだろうか。彼も懐かしさに記憶をたぐり寄せたのだろうか。返事が来ればいい程度に思っているのかもしれない。佐緒里は卒業アルバムを開き、一枚の紙を取り出した。高峰と記された名前の横には、住所未定、とある。高峰らしい一文だが、卒業式に彼からもらった手紙を読んだ後はこの一文がやたらと恨めしかった。年賀状には、社会人一年目の佐緒里にも見慣れぬ住所が書かれている。

 高峰からの年賀状を受け取って二日後、佐緒里は電車に揺られていた。二つの路線を乗り継いで、一時間半。見知らぬ駅から携帯のディスプレイが示す方向通りに進むと、五分ほどで目的地に着いた。おかしなところで思いきりのいい自分は相変わらず居座っているようで、古いアパートの廊下で表札を確認すると佐緒里はためらいなく呼び鈴を鳴らした。
 ドアの向こうで覗き窓を確認している気配に気付き、佐緒里は緊張にとらわれた。どうやら思い切りがいい癖に臆病な自分まで高校生の頃から引きずっているようだった。開いたドアの向こうには、呆然としている高峰がいた。髪は短くなっているけれど寝癖ではねていた。リムレスの眼鏡をかけている。うーんサラリーマンっぽい、などとやや時代がかった感想を頭の中でつぶやいて、佐緒里は鞄の中から年賀状を取りだした。
「お届けに来ました」
 年賀状には、旅行先の京都で撮った路地で寛ぐ猫の写真がプリントアウトしてある。余白に小さく「元気だよ」とだけ書いておいた。高峰は目を瞬かせながらそれを受け取り、視線を彷徨わせている。
「相変わらず、意味わかんねえ」
 声はあまり変わっていなかった。低くもなく、高くもなく、ちょっとかすれている。
「年賀状、届けに来ただけだけど」
「ちょっと届けにって距離じゃないだろ。この辺に…彼氏でもいんのかよ?」
「ううん、届けに来ただけ。あ、もしかして彼女が中に?」
 それは悪いことをしてしまったと佐緒里の胸に後悔が襲う。奥に畳の部屋が見えるが、玄関から中の様子はうかがえない。
「彼女自体いねえし。嫌味に聞こえるし」
「私だって今彼氏いないんだからおあいこだと思う」
「来る前に連絡しろよ。髭すら剃ってねえんだぞ俺」
「電話番号知らないし」
「俺はただ、思い出して欲しかっただけで、こんな展開…いや望んでねえとは言わないけど」
 下の階でドアの開く音が響く。口をつぐんだ後で、高峰は顔を上げた。
「入るか? 言っておくけど、俺何にもしないでいられる自信ないから」
「うん、じゃあ、楽しみにしてる」
 中へ入って、後ろ手に鍵を閉めた。葉書一枚と「元気か?」という言葉だけで、大学時代に付き合った男の子よりずっと心をかき回されて、悔しくて仕返しがしたかった。高峰の驚いた顔に少しだけしてやった気になって、でも同時にまだ何かが足りなかった。ブーツを脱いで畳の部屋へ踏み込んだ佐緒里は、もしかしたらあの頃より傲慢になってしまったのかもしれないと思った。



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