てさぐりくらべ(香苗視点)




 渡り廊下の横に作り付けられたかのような部室は狭く、けれど幸運なことに日当たりが良かった。窓と廊下側の天窓を開けておけば風が通る。紙の類は陽の光で劣化してしまうので薄い生地の白カーテンは常に引いておいたけれど、明るさは十分だった。
 たった二人だけだった新聞部に入部して三人目の部員となり、雑用のほとんどをこなすことになったのは、結城里志ゆうきさとしの人を見る目が確実だということを証明しているのかもしれないと名取香苗なとりかなえはまるで他人事のように考えた。
 香苗は文章を読むことが好きだった。それが意志を持つ文であれば尚良い。その文章が意志を持っているかどうかは香苗の主観なので評判の良い小説が必ずしも好みに合うとは限らない。だから最初に渡り廊下で刷られた藁半紙を手に取った時、香苗は自分の文章に対する判断基準に疑問を持ったのだった。球技大会の結果と優勝チームのインタヴューを記しただけの、高校の新聞部の部紙に引き込まれるとは思わなかった、と。
 部室の前で藁半紙を手に読みふけっていた香苗に「ねえ」と声をかけてきたのが結城だった。短めに切りそろえられた髪、日本人にしてはやや浅黒い肌、ひょろりと背が高く細い男子生徒、というのが最初の印象だった。
「ウチの部に興味があるの?」
 文章の世界から突然引き戻された香苗は目を瞬かせてから首を横に振った。部に興味があるとは言い難い、と咄嗟に思ったからだ。
「じゃあ、セツに興味があるとか?」
 今度は眉を寄せて首を傾げるしかなかった。『セツ』は香苗にはまったく聞き覚えのない単語だった。
「もしかして、純粋に、読んでるだけ?」
 ようやく自分の行動に当てはまる単語に出会い、香苗は頷いた。
「その写真良く撮れるでしょ? 俺が撮ったんだ」
 記事の横にはチームが勝った瞬間の写真なのだろう、応援しているクラスメイトたちが手を上げて喜んでいる姿が写っていた。白黒で潰れた写真なのにシーンがはっきりと読み取れる。
「良い場面で撮れてますね」
「でしょ? 嬉しいね、内容に反応してもらえるのって結構貴重なんだよな」
 人見知りという単語を知らないかのような笑顔を見せた結城は、ふと香苗の足下に置かれている紺色の鞄に目を落とした。
「荷物重そうだね」
「ちょっと厚めの小説が入ってますから」
「読書家なんだ?」
「読書家と言えるほど真面目な本は読んでません」
「一年生?」
「はい」
「俺、二の五の結城。その手に持ってる新聞の写真担当。ちなみに、君の名前は?」
「一年一組の名取です」
「名取さんさあ、もしかしてパソコンのワープロ打ちとか得意じゃない?」
 香苗は頬に手を当てて考えた。パソコンのワープロは読書の記録を残すのに使っている。タイトル・作者・出版社と簡単な感想を記しておくと、後で読んだ本を二度図書館から借りてしまうとか本屋で買ってしまうということが起きにくいからだ。
「そこそこできますが、得意というほどでもないかもしれません」
「でもそこそこできるんだ。ねえ、名取さんさあ、ウチの高校のロッカーって小さいじゃない? ジャージだけでいっぱいだろってくらい。分厚い本を置いておけるスペースとか、欲しくない?」
 教室に備え付けられたロッカーは鍵付きとはいえ狭かった。ジャージと教科の資料集の類を入れておくとそれ以上はほぼスペースが残らない。小説は持ち歩いて読むものなのでロッカーに仕舞うことはなかったが、友人から漫画を一度に借りた時、置いておけるスペースが欲しいと思っていたことは確かだった。香苗は友人が多い方ではないが、類は友を呼び彼女たちは揃って本か漫画好きなので貸し借りは多い。
「ウチの部に入れば、鍵は付いてないけど広いロッカー貸せるよ」
 思案する香苗を見下ろして結城はニヤリと笑った。その時点で香苗は彼の思惑に気付くことは出来なかった。
 結局、結城のその言葉に引っかけられて、以来香苗は新聞部での雑務を一人で引き受けている。手書き文章のデータ化・校正・レイアウト・部費会計。しかし、どうやら自分はそういった作業が嫌いではないらしいと気付いた香苗は、裏方仕事を黙々と部室でこなすことにあまり不満ははなかった。何より部室の居心地が良い。
 新聞部には入部希望者が時折現れるのだが、部長権限によりほとんどは却下されてしまう。その事実を知ったのは、香苗が入部してしばらく経ってからのことだった。

 カーテンをくぐるようにめくり窓の外を見下ろすと、そこには中庭が存在している。ベンチがいくつか置かれ、季候が良ければ生徒が昼食を食べるのに利用する。夕方は生徒同士のカップルがひそやかに会話する場になる、ということについては新聞部に入部してから知った。そこに結城と女子生徒の姿を認めた香苗は、素早くカーテンをくぐってまた部室側に戻った。
「もしかして、里志カノジョと一緒?」
 タイミング悪く部室に部長が登場したところだった。新聞部の部長は窪井摂くぼいせつ、そして香苗が読みふけっていた文章を書いたのも彼だった。窪井はパソコンが嫌いなわけでもないのに記事は手書きでないと出来上がらないと主張し、そして自分の文章を自分で打ち込むことも嫌った。だから彼の原稿を打ち込むことがこの部における香苗の一番の仕事だった。彼の文章に意志を感じる香苗にとってそれはある意味楽しい仕事でもあったが、同時に部長である彼が漠然とした何かから逃げているようにも感じていた。それが何なのか表現できないことが、香苗にはもどかしくもあった。
「ええ、相変わらず仲むつまじく」
「そこで『仲いいですよねー』とかいう表現に走らないところが名取のいいところだよな」
「お褒めにあずかり光栄です」
 窪井の言葉を一々真に受けていては物事が動かないと知っている香苗は肩をすくめて再びパソコンの前に座った。部のパソコンはやや古いが校内のネットワークに繋がっており、フィルターにひっかからない限りウェブサイトも閲覧できる。記事を紙の上に配置するなどという経験を持ち合わせなかった香苗は、ワープロソフトのレイアウトについての知識をほどんとウェブから吸収した。油断すると怪しげなサイトにどうにかして入り込めないかと試行錯誤を始める先輩男子学生二人を止めるのも香苗の仕事だ。
「そう言えば、この間また女の子が入部したいって来てました。直接部長に声をかけてくださいってお願いしたんですけど、行きました?」
「あー、来た気がすんな。ま、断ったけど」
「お二人が卒業したらこの部なくなっちゃいますよ?」
「それもいいだろ。まー俺らが三年になったら名取が適当に友達引っ張ってきたらいいんじゃねえの?」
「見通しが甘すぎます」
「名取だから大丈夫だろ」
「根拠がありません」
 窪井はこの話し方だが生み出す文章はやや固い。どうやって切り替えているのかが香苗には不思議だった。
「それにしても、相変わらずモテますね」
 入部希望の女子生徒はそのほとんどが整った容姿の窪井に憧れてやってくる。面倒事は嫌いと言い切る窪井はそういう女子生徒を決して入部させない。窪井はクラスメイトなどなじみのある相手には比較的優しいが、そうでない相手には素っ気ない態度を取る。それが照れなのかそれとも彼の主義なのかは不明だった。香苗にとって窪井はどこか違う世界に居る人間に感じられた。惹かれる文章を生み出している人物という意味での憧れも含んで。
「面倒じゃない女は意外と寄ってこないんだ、これが」
「女の子に刺されないように気をつけてくださいね」
 香苗は窪井の容姿に憧れるタイプの女子生徒ではない。それを結城が短い会話で見抜いたことはさすがと言わざるを得ない。だが。
「刺されるのは里志だろ。想われてるって知ってて彼女との仲むつまじい姿を見せつけてんだからさ」
 だが、結城は香苗が結城を想うようになるとは予想できなかったのだろう。結城には香苗が入部する前から彼女が居た。バスケットボール部に所属するショートカットの清々しい綺麗な女子生徒だ。入部してから香苗は一つにひっつめていた髪型を変え、ささやかな長所である黒髪の両脇を小さな銀色のバレッタで留めるようにした。化粧に手を出す勇気はないが、小さな鋏を買い眉も少し揃えるようにしている。恋が女を変えるだなんて信じていなかった香苗だが、今はもう信じざるを得ない。
「結城先輩は私の気持ちなんて知りませんよ」
 窪井は香苗の気持ちに早々に勘づいた。彼の観察眼は感情面において発揮されるということに香苗が気付いたのは窪井にそのことを指摘されたからだった。
「そうか? 知ってんじゃねーの」
 窪井が後ろ手に部室の鍵を閉めた。蹴っ飛ばしたら壊れそうな古い扉だが、開くための鍵を今香苗が持っている以上つまりは蹴っ飛ばさない限り誰も入っては来られない。香苗がパソコンの前で身を固くすると、窪井がゆっくりと近付いてきた。
「さっきの発言取り下げる。アイツは知ってるからこそ名取に諦めて欲しいんだよ。優しい奴だからな、俺と違って」
 窪井は香苗の肩の下辺りまで伸びている黒髪に手を差し込んだ。彼は香苗の髪を気に入っている。
「事実だとしても、すべてを言葉にしていいわけではありませんよ、窪井先輩」
「それは残念ながら新聞部の精神に反するな、名取」
 窪井は香苗の顎を指で上向かせ、唇に吸い付いた。その瞬間、いつも香苗は彼に何かを奪われてしまった心地になる。窪井にとって香苗は『面倒じゃない女』の一人に数えられているようだった。他の男子生徒に恋をして、同時に失恋し続けている女子生徒として。
 最初は『結城への気持ちを黙っていて欲しいのなら』という子供だましの条件で始まった行為だった。香苗は半分呆れていたが、惹かれる文章を生み出す人物としての好感がその子供だましを拒めなくした。経験のない香苗に窪井は容赦せず最初から深いキスを繰り返し、今では香苗もある程度は慣れてしまった。
「お前、いつになったら諦めんの?」
 キスの合間に囁かれる言葉は、まるで何かの告白だと勘違いしてしまいそうな響きだと、香苗はそう考えながら深く目を閉じた。



(香苗視点終了)



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