てさぐりくらべ(摂視点)




「こんな藁半紙一枚でも、教室が見えない何かで封鎖された学校に、風を通すことができると思わない?」
 小平叶こだいらかなえは新聞部の部室から中庭を眺めたまま、窪井摂にそう尋ねた。小平の黒く長い髪は風になびき、スカートの裾も揺れていた。以来、摂はその言葉に支配されていると自覚している。

 摂にとって容姿は武器であると同時に弱点でもあった。整った容姿、そう褒められることは日常茶飯事だったが、自分の容姿に惹かれてやってくる人間は男女問わず摂にとって「いけ好かない」タイプばかりだった。摂は自然と、摂の他の部分を知っている人間としか話さなくなっていった。クラスにも馴染むまで時間が掛かる。そして一人で居ても退屈しない読書というツールを好んだ。そんな摂が高校に入って、まだ学校やクラス集団に精神的に所属することを拒んでいた頃、渡り廊下に落ちていた藁半紙を手に取ったのだった。
 その校内新聞に記されていた内容は、卒業式と入学式だった。卒業式では卒業生が在校生に向かって飴を投げ、在校生はそれを必死に受け取るという慣習があるのだと、摂はその藁半紙から知った。白黒のかすれた写真だったが、投げる卒業生と飴を手に取り喜ぶ在校生の姿がプリントされていた。記事を読み終えた摂は、初めてこの学校も悪くはない、と思った。
 きまぐれに新聞部の戸を叩いた摂を迎えたのは、「学校って結構閉鎖的じゃない」が口癖の小平と、寡黙で背の高い松長暁彦まつながあきひこ だった。三年の二人は、一年である摂の入部を喜んだ。ようやく「悪くはない」と思える場所を手に入れた摂は、写真が趣味だとつぶやいていた記憶を頼りに、同じクラスの結城里志を新聞部に誘った。最初は突然の誘いに驚いていた結城も、校内新聞の写真を見せると顔色を変えた。新聞部は三年二人、一年二人という四人の部になった。
 摂は行事がある度に小平に付いて彼女が記すメモを見ていた。結城は松長と行動を共にしていた。松長が「結城君に負けそうだ」と漏らすようになったのは、二人が入部して三ヶ月後だった。一方、摂が小平と同じ程度のことができるようになったのは半年も経ってからだった。悔しいという気持ちもあったが、摂は結城の写真に対する気持ちや腕を信頼していった。幸い結城は摂の容姿をやや気の毒に思っている節があるほど、摂の人間関係に対する姿勢をを理解してくれた。摂は結城と二人でもやっていけるようになりたいと思った。
 摂が作った殴り書きのような記事を校正しながらパソコンに打ち込むのは小平の担当だった。一度摂も自分でパソコンに向かったことがあったのだが、客観的に向き合うと自分の記事がいかに小平に影響されているか、そしていかに敵わないかを思い知るため辛かった。

 小平は松長を想っていた。それは入部してすぐに気付いたことだった。松長を見る表情も瞳も他の人間に対してとは違った。にもかかわらず、小平は摂と一緒に居ることで摂のファンを自称する一部の女子からのやっかみを受けたことがあったようだった。以来、摂は自分の容姿だけを見る女子たちが以前に増して疎ましくなった。
 松長には恋人がいた。幼なじみという三年生の女子生徒は、頭が良いと評判だったが摂が見た限りおっとりとした印象だった。頭の回転が速く行動も早い小平とは明らかに違うタイプだった。小平が時折痛ましい表情で二人が並んで歩くシーンを見ていることを摂は知っていた。
 摂は、小平に憧れていた。それが恋愛だとか付き合うだとかそういうことに繋がる感情なのかどうか摂には分からなかった。けれど小平の文章に向かう心も長い髪も、隠そうとして隠し切れていない表情も「いい」と思った。
 摂は自分の気持ちを口にする必要があるとは感じなかった。けれど小平に関しては気持ちを松長に伝えた方がいいと感じていたし、小平にもそう言った。だが、結局松長は小平の気持ちを知ることなく、小平は摂の気持ちを知ることなく卒業していった。摂がそれを知っているのは、卒業式の日、小平が摂に「結局、言えなかった」と苦笑と共に告げたからだった。

 二年に進級してしばらくしたある日、結城が突然一年生の女子を部に連れてきた。摂は最初表情を固くしたが、結城が記事をパソコンに打ち込むことを苦手としているのを知っていたのであまり表立って反対ができなかった。結果として、結城は人を見る目がある、と摂が降参するまでそう時間はかからなかった。そのくらい、名取香苗が摂の容姿に興味を示していないことは明白だった。彼女は記事を書くことはなかったが、事務処理の能力に優れていた。小平が卒業し、どれだけ彼女が雑務をこなしていたのかを思い知っていた二人は、名取が入部しそれぞれ記事に写真に専念できることのありがたみを実感した。摂は結城と二人でもやっていきたいなんて、作り出そうとする者の奢りだったと反省した。それでも、名取以外の生徒を部に入れる気にはなれなかった。新聞部の戸を叩く者は、たいがい摂の容姿に興味を持っている人間ばかりだった。

 『かなえ』という名前は、摂にとって特別であり同時に小さな痛みを覚える名前だった。名取が入部してからは、その痛みに拍車が掛かった。長い髪の奥に他の男子生徒への想いを隠して、摂の前で笑ったり、怒ったり、呆れたりする。『かなえ』は二人ともそういう女子生徒だった。最初結城が「名取はどこかが小平先輩に似ている」と言った時「どこがだよ」と返してしまった摂だったが、今はもう否定できない。結城への想い故に年頃の女子らしく綺麗になっていく名取は、容姿までも小平と重なることがあった。
「球技大会なんてさ、結局一年の行事なわけじゃん」
 部室の隅でプリントアウトした用紙に赤を入れている名取へ、摂は唐突にそう声をかけた。摂の気紛れに慣れてしまったのか、名取は「そうですね」とだけ返した。手は決して止めない。
「でもその場の盛り上がりとか雰囲気とかさ、少しでも紙に載っけられればさ、他の学年の奴にも伝わるわけじゃん」
「ええ」
 赤いペンが紙の上を走る。
「そしたらさ、見えない空気の壁みたいなもん、少し薄くなるんじゃないかね。この学校でも」
 今や『叶』よりも摂の思考を占めている『かなえ』はふと顔を上げた。
「見えない壁、ですか」
「あんでしょ、やっぱ」
「無いとは言えませんが…でも、年齢が違う以上日本においてそれを無くすのは難しいようにも思います」
「年齢なんてさ、三月生まれの奴と四月生まれの奴なんてほっとんど変わらねーじゃん。結局ただの区切りなんだよな。カテゴライズ」
「ただの区切りにこだわるのが日本人ですから」
「でもくだんないじゃん。これ一枚でちょっとでも変わるかもしんないんなら、めっけもんじゃね?」
 摂がぺらりと一枚を手に取ると、名取はわずかな、けれど確かな笑顔を見せた。
「私は該当の一年なので壁のことは分からないんですけど…球技大会の記事、面白かったですよ」
 笑顔はすぐに見えなくなり、また赤いペンが走りだした。
「でも、窪井先輩も、記事の取材以外だと他人に壁を作ってる気がします」
 すっと摂から表情が抜けたことに、名取は気付いていない。摂の中から押さえきれない衝動が沸き上がった。立ち上がった摂を見上げ、ようやく名取は自分の失言に気付いたようで口を押さえた。
「窪井先輩、私悪い意味で言ったわけじゃ…壁を作ることも時には必要かもって…」
 名取がそういう意味で言ったことなど摂には分かっていた。彼女は小平と同じくらい、言葉を深く考えている。分かっていても…むしろ分かっているからこそ、衝動に突き動かされる。
「名取、お前いいかげん里志に告白すれば? 先輩じゃなかったら、そんなに我慢してたか、お前? そんなんおかしいだろ。俺が言ってる壁ってそういうのだよ。俺は同級生だろうが先輩だろうが後輩だろうが、面倒な奴には等しく壁を作る」
 摂の作り笑いを見て、名取はひどく悲しそうな顔をした。たとえ悲しみでも、自分の言葉で表情を変える名取を目の前にすることが摂に歪んだ喜びをもたらす。
「俺のこと拒まないのも、先輩だからなのか」
 右顎をつかんで上向かせ首筋を舐めると、名取は一瞬身を引こうとしたがすぐ諦めたように力を抜いた。
「違います…多分、窪井先輩の書く言葉が好きだからです」
 でも、男として好きなのは里志なんだろと、責めたくなった言葉はどうにか飲み込んだ。これは、他人には想いを告げろと言っておきながら自分では告げる気すら起こさなかった人間へのバチなのだろうかと摂は思った。


(摂視点終了)



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