てさぐりくらべ(香苗視点、再び)




 名前と学年を尋ねられて、目を瞬かせながら自己紹介をすると、彼女はにっこりと笑った。
「かなえさん? 私と同じ音の名前なのね」
 風のように舞い込んできたその女性は、昨日帰りがけに花屋の店先で見たポインセチアのように鮮やかだった。

 小平叶、という人物について香苗が知っていることはあまり多くない。昨年度三年生だった生徒であり、卒業の直前まで新聞部で活動をしていた先輩であり、窪井に負けず面白い記事を書く部員であった…知っているのはそれだけだった。
 けれど、部室にたった一時間訪れただけで、香苗は小平という女性がいかに先輩二人に影響を与えているのかを理解した。そして、何故窪井が決して魅力的とは言えない自分へこっそりと口付けを繰り返すのかも。
 先輩が顔を出す、という話は結城から聞いていたものの、それが女性だとは予想していなかった。香苗が入部してから今まで新聞部には自分以外男性しか居なかったので、女性というイメージを持てなかったのである。しかし現れた「小平叶」は綺麗な女子大生だった。窪井、結城、小平の三人は去年の行事の話に花を咲かせている。入り込めない香苗は、窪井が出した四百円でペットボトルのお茶を買い出しに行って時間を稼いだが、そんな作業はものの二十分で終了した。あとは部室の端で何となく三人の会話に耳を傾けながらも部費の会計簿をチェックして過ごした。
 帰りがけに小平は香苗に「お茶を買ってもらっちゃってありがとう」と礼を述べた。
「いいえ、お金は窪井先輩に出してもらいましたので」
「買いに行く手間だって大事だわ。一年生で校正も部費会計も紙面のレイアウトも引き受けてるんですってね」
 まぶしいとしか表現できない小平に褒められることは、却って香苗にとっては負担だった。笑顔になっていない笑顔で首を傾げることしかできない。
「記事も書けなければ写真も撮れないので」
「書かないの?」
 きっと彼女にとっては書かないことの方が不思議なんだろうなと感じられる表情だった。
「私にできるのは、読むことだけです」
 それだけは自信を持って、香苗は彼女に答えた。今度は小平が笑って首を傾げた。
「結城君も窪井君も、あまり名取さんに甘えすぎないようにね」
 小平の有無を言わさぬ笑顔を向けられ、いつも自信に溢れた先輩二人の体が少し小さくなったように見えた。

 世の中には似ているのに美人とそうでもない姉妹、というものが存在する。人生において美人が女性の絶対的な基準にはなり得ないが、少なくとも高校生の男子にとっては大きな基準だろうと香苗は思う。部室に現れた小平を、窪井は明らかに尊敬と憧憬の眼差しで見ていた。小平と香苗は名前の音が同じだが、窪井が香苗を気にかける理由はそこではないだろう。窪井が長く黒い髪を気に入った理由も、良くまぶたに口付けるのも、小平叶という人物を思い浮かべているからに違いない。目元と髪だけなら、香苗は小平によく似ていた。ただ、結果としてその顔は美人とそうでないという結果に分類される。いくら香苗が薄化粧を施したとしても、きっと小平には到底近づけない。
 それでも少し似ている香苗にちょっかいをかけるほど、窪井は小平に強い想いがあるのだろう。

 窪井が小平を駅まで送ると出て行った後、電卓を叩き終わった香苗はそっと溜息をついて顔を上げた。パソコンに向かって写真データを確認している結城に声をかける。
「結城先輩、私今日はもう終わりにしますけど、鍵どうしますか?」
「ああ、俺も終わりにするわ。小平先輩と三人でだべってうるさくしてたから仕事進まなかったろ、ごめんな」
「いえ、綺麗な方で目の保養になりました」
「…女性なのにか?」
「女性でも男性でも美しいものは美しいです」
「でも普通、女の子なら天下の窪井摂の方が保養になりそうだけどな」
「そうでしょうね」
「つまり名取は普通じゃない、と」
「…どうしてここの部の男性は言わなくてもいい事実をあからさまにするんでしょうか」
 意地の悪い笑みを浮かべる結城を香苗が睨むと、彼は「怖い怖い」と漏らしてパソコンに向き直りシャットダウンした。香苗が鍵に手を伸ばすと、結城の手が横からそれを阻止した。
「今日は俺が戻すよ。摂も茶くらい最初から自分で買ってくりゃあいいのにな」
「奢ってもらったんですから文句は言いません。今月ピンチなので感謝してます」
 電卓を引き出しに収め立ち上がり、電気を消すと結城がドアの前で動きを止めた。向かい合った姿勢で暗がりの中結城を見上げる。
「ところで名取、摂はどういう内容の『言わなくていい事』を言ったわけ?」
 窪井との会話の内容を思い出し、香苗は固まった。結城に告げられる内容ではない。
「『言わなくていい事』ですから、言いません」
 拗ねた声で冗談めかして眉を寄せると、結城は笑った。暗闇の中で、瞳が浮き出るように光っていた。拗ねた表情を続けていると、結城は香苗の眉間に人差し指を当ててからそこに唇を押しつけた。香苗が呆然と目を見開いていると、暗がりの中に苦笑が浮かんでいた。
「名取、俺、カノジョと駄目んなった」
「それは…残念、ですね」
 自然と口をついた言葉に香苗自身が驚いていた。結城と付き合っている女性に何度も嫉妬心を抱いていたはずなのに、今はごく自然に二人の別れを残念に思える。同時に自分が『小平叶』という人物に嫉妬している事に気がついた。先輩二人それぞれの強い信頼と憧憬を向けられているのが、今はもう学校に居ない先輩なのだと知って。
「だから摂ばっかりかまってないで、たまには俺もかまってよ」
 結城に笑顔を向けられる。望んでいたはずなのに、心は弾まなかった。結城も窪井も、自分を通してあの女性を見ているのだと香苗は感じていた。尊敬すべき先輩に強く嫉妬している自分が、一番醜く、苦しい。
「窪井先輩も結城先輩も私と違ってモテるんですから、そんな必要はありません」
 溢れそうになる瞳が暗がりで隠れていればいいと願いながら、香苗はドアのノブを回した。渡り廊下も既に薄暗い。
 結城と窪井、どちらが原因で小平に嫉妬しているのか、本当は二人のどちらに惹かれているのか、分からない。自分という存在が一番やっかいだと絞られるような胸の内で考えながら、香苗は「また明日」と手を上げる結城に笑顔で会釈した。体の向きを変えた瞬間に、涙がこぼれた。



(香苗視点、再び 終了)



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