指輪症候群




 葉常はつねがどことなく惹かれてしまう相手は、いつも指輪を嵌めている男性だった。『指輪を嵌めている』というのは結婚しているという意味だけではなく、文字通り薬指に銀の指輪を嵌めている、という物理的な意味合いも含んでいる。
 葉常自身、意識しているわけではなかった。たとえば『恋人は彼女がいる男性のほうが良い、なぜなら他の人間から選ばれている意味で失敗の可能性がわずかでも低い』というビジネス書の言葉に理屈上は理解できても、感情で納得はできない人間だった。それは人間の相性という不可思議でだからこそ面白い現象を、過小評価しすぎているようにも感じた。だが、にもかかわらず無意識に視線を奪われる男性は、ことごとくその薬指に銀のリングを嵌めている。だから葉常は大学を卒業して以来男性と付き合ったことが無かった。

 職場へパソコン一括納入を依頼している業者の担当者である男性二人が挨拶にやって来たその日、やはり葉常の視線は指輪をしている男性に止まっていた。最初は持っている書類の影になって指輪が見えたわけではなかったのだが、ふと意識している事に気付き手元を確認すると銀色が見え隠れしていた。葉常は社会人になってから幾度も経験した軽い落胆を持て余した。
 葉常が惹かれてきた指輪の男性は必ずしも二枚目で背が高いというわけでもない。なのに何故だろうと茶筒から粉茶のパックを取り出しながら葉常は心の中で自分の傾向に首をかしげた。上司と納入場所や引取りについて打ち合わせを始めている男も、中肉中背、色が白く、芸能人に似ているわけでもない。
 実は自分は自分で思っている以上に打算を優先する人間だったのだろうかと溜息をつきつつお茶を準備し、葉常は打ち合わせをするために会議室へと向かった。

 担当者二人はそれから度々職場へ姿を現し黙々と作業をするようになった。職場の先輩や友人たちの話をそれとなく耳にしたが、葉常の視線をひきつけるその男性の評判は特に良いというわけでもなく、どちらかと言えばもう一人の指輪をしていない男性を気にしている女性のほうが多い様子だった。
 心の動く男性がことごとく結婚しているというのははやり自分の深層心理の問題なのだろうかと悩んでいた葉常は、ある日上司専用のパソコンのスクリーンセーバーに見入る作業着姿の男を目にした。パソコンの持ち主である上司は子煩悩で壁紙からスクリーンセーバーまで全て一歳になる娘の写真で埋め尽くされている。席を空けている上司の机の前で作業の手を止めて画面を見る男は、もう一人の男に声をかけられて作業に戻っていった。

 別室になったサーバールームで作業をする二人の男に呼ばれ機材類の配置図を手渡した葉常は、作業を続ける二人に質問を受けながらもやはり指輪をしている男性に視線が止まっていた。結果ふと振り返った男と目が合ってしまい、話しかけるつもりなど無かった葉常は思わず口を開いていた。
「お子さんが、いらっしゃるんですか?さっき、画面に見入っていらっしゃって」
 男はハッと気付いたような表情をしてから、納品先の職場のパソコンを見ていたという罪悪感からか下を向いた。
「いえ、いないです。すみません、あそこまでくると見事だなあ、と思ったものですから」
 『あそこまで』の言葉に、思わず葉常は吹き出した。
「そうですよね、見事ですよね」
 すると、もう一人の作業中の男が、「そいつ結婚すらしていないんですよ」と後姿で手を動かしたまま声を上げ、葉常は驚いて彼を見た。心臓の辺りが、締め付けられるように熱くなった気がした。男は眉をひそめ小声で同僚を非難した。
「バラさないでくださいよ」
「そんなに用心しなくても、あんな女そうそういねえよ。…そいつ、昔納品先で会った女性に付きまとわれて、それから結婚もしてないのに指輪してるんですよ」
「そんなことまで…いいかげん怒りますよ」
「そりゃすまないな」
「反省してませんね」
 呆れた表情をしてから葉常に向き直った男に、何と言って良いか迷った挙句「女避けですか、大変ですね」と声をかけた。
「いや、そんな大げさなものでもないのですが…ああ、仕事中にお邪魔してすみませんでした。だいたい分かりましたので、大丈夫です」
「はい。では、よろしくお願いします」
 頭を下げてサーバールームを出た葉常の心は、何故か冷めていた。指輪で女除けをするほどの男は、どう考えても自分にそぐわない。やはり自身で自分を変えるべく何か思い切ったことでもするべきだろうかと思いながら葉常はデスクに向かった。

 休憩時間が十三時からのシフトだった葉常は、昼食から戻った後友人と別れてコンビニで買い物をし、一人職場へと戻ろうと通路を歩いていた。すると、目の前から作業着姿の指輪をした男の姿が見えたため、葉常は「お疲れ様です」と声をかけた。
「あ、今課長さんにはご挨拶したんですが、作業全て終わりましたので、引き上げさせていただきます。何かありましたら、こちらまでお願いします」
 男は胸ポケットから名刺を取り出して葉常に差し出した。
「ありがとうございました」
 受け取って一礼すると、男は動く様子もなく黙って葉常を見た。まだ何かあるのかと葉常は彼を見上げた。
「あ、あの、名刺の裏に…」
 歯切れの悪い言葉を不思議に思いつつ名刺を裏返すと、携帯電話の番号とメールアドレスが手書きで記されていた。
「よかったら、今度、食事でも…いかがですか」
 見上げた男は、目を泳がせている。その慣れない様子を見た葉常の心の中に、また心を締め付けるようなそれでいて温かいものがこみ上げてきた。
「…連絡、します」
 葉常もまた彼から目を逸らしつつ、小さな声で答え、彼の横をすり抜けた。




(Fin)



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